戦争のない平和な世の中を

日本共産党 とべかおるさんの原点です

朝早くから夜遅くまで働き詰めの親を見て育つ

とベかおるさんは、1951年に栃木県の農家の三男として生まれました。ご両親は、家族の病気人院が続き、治療費を賄うために朝早くから夜遅くまで働き詰めでした。

かおるさんは、戦争の傷が癒えない昭和30年代、近所の友達と野山を走り回って遊びながら、小学校の低学年の頃から、風呂の水汲みやご飯炊きなど、家事手伝いは当たり前として育ちました。また、スポーツが大好きで中学·高校·大学では、器械体操や駅伝、水泳、剣道など部活動にも励み、郡や県の大会にも出場しました。

大学に入り、サラリーマン家庭の友人と交流するたびに、友人やその家族の暮らしぶりが自分の育った農家とは全く違うことに驚きました。

社会の仕組みを学び日本共産党に入党

大学1年の6月、「君も社会の仕組みの勉強会に参加してみないか」と声をかけられ参加したのが民青同盟の学習会でした。仲間と共に学習する中で、搾取「する側」と「される側」があることを初めて知りました。そして、「努力しても報われない社会であってはならない、誰もが人間らしく生きていける社会にしたいという思いを強めていきました。

かおるさんは、大学2年の秋に「搾取する側には決して立たない」と決意して日本共産党に人党しました。

大学卒業後は、東京で小学校の教員になりました。

かおるさんは、每日を純粋無垢な子どもたちと過ごす中で、教師として、学力を保障することと同時に「戦争のない平和ない世の中」を保障することが一番大切なことだ、と強く思うようになり、教職員でつくる組合にすすんで加入しました。

組合では、教育実践研究会ヘの参加をはじめ、子どもたち学習環境や教職員の労働条件の改善運動、「子どもたちを再び戦場に送るな」という乎和運動に積極的に取り組みました。

市民の命と暮らしを守る日本共産党の議席を市議会に

かおるさんは、定年退職後、釣りができ温暖で暮らしやすい場所を探し求めて2012年に勝浦市の松野に移り住みました。

かおるさんは転居後、市議会議員を10期務めた共産党の児安利之さんや、児安さんの後を継いで共産党の市議会議員として力を尽くした藤本治さんと共に、ゴミ袋代や水道料金の引き下げなど、市民の皆さんの願いを実現する運動に参加してきました。また、市民の願いが議会でどのように審議されるのか、と市議会の傍聴にもいきました。

かおるさんは、「今ほど憲法、そして9条が大切な時はありません。同時に、コロナから市民を守る事も大事な仕事です。憲法を活かし、いのちと暮らしを守る市政の実現に、力いっばい働きたい」と決意しています。